ハッピーレボリューション

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前夜 「プロローグ」

「ねぇ、ねぇ、美里ちゃんの夢ってさ、何?」

「夢……?」

聞き慣れない言葉に、美里は一瞬真顔になってしまった。

このお客さん、なにが言いたいのかな…?
あ、そうだ!


「お嫁さん!」

「そっかぁ! 美里ちゃんみたいな可愛いコが毎日一緒にいてくれたら、旦那さんは毎日幸せだろうなぁ」

店内は、音楽と笑い声などが入り、隣の席の会話も聞こえないくらいだったが、その騒音が、より一層美里を静寂の世界へと引き込んでいった。

その後も、何か話しかけられていたような気がしたが、美里は上の空でさっきの言葉が頭の中でこだましていた。

夢? 夢って、何?
夢? 私の、夢?




美里が銀座のキャバクラで働くようになったのは、3ヵ月前からだ。

「ねぇねぇ美里。銀座に超雰囲気のいいバーができたんだって!
 今日そこ寄ってかない?」

就職先の商社で仲良くなったあやが、はしゃぎながら、駆け寄ってきた。
今日のあやは白いワンピース。
また見たことのない服だ。

あやは、東京生まれの東京育ち。
根っからのお嬢様。
パパは、某銀行の役員だと聞いたことがある。
この会社も、パパのコネで入ったらしい。
あやの実家は目白の一軒家。
この丸の内のオフィスにも、実家から通っている。

「うん、いいよ。行こう! 行こう!」



大学を卒業し、念願の商社に就職。
華やかなOL生活を夢見ていた美里が現実の厳しさを知ったのは、入社後わずか2ヵ月後だった。

マジ? 
給料って、こんなにいろいろ引かれるの?


年収300万。
そこから、雇用保険に健康保険、厚生年金、それに所得税。
うちの会社は労働組合費というものまで引かれる。

なんとなく300万って、大金だと思ってた——。

同級生の友達と比べても、給料は良いほうだった。
なのに、学生時代の収入と比べ、少なくなるなんて、とんだ計算違いだ。
仕送りの15万と、居酒屋でバイトした10万の方がよっぽど良かった。

みんな、どうやって暮らしてんのよ…
社会人になってまで、親におこづかいくれなんて言えないしなぁ…




部屋は大学時代より狭い茗荷谷の1K。
家賃は85,000円。
古い部屋だけは嫌だから、新築で、オートロックで、白いタイル張りのキレイな外観のマンションに決めた。

結果、家賃は予算をはるかにオーバーし、そして部屋はものすごく狭い。
シングルベットとテレビ、それにテーブルを置いたら、それでいっぱいいっぱいだ。
クローゼットに入りきらない洋服が、段ボールの上に山積みになっていた。
美里はこの部屋に、まだ母しか入れたことはない。

ここに引っ越した当初、美里は節約のために自炊をしようと張り切っていた。
学生時代の居酒屋のバイトはまかない付きだったので、これまで料理なんてしたことがない。

玉ねぎと、にんじんと、ジャガイモと、カレーのルーと、ビーフ…
え? 牛肉って、こんなに高いの? じゃあ、豚肉でいっか…


その日、1時間かけて頑張って作ったカレーを食べながら、ふと、テーブルの上に置いたレシートを見た。

1,960円か…。
それなら、すき家のカレーの4倍じゃん!
何ソレ!


料理をする気が、一気になくなった。
一人分の食事を作るというのは、意外と非効率だということに、すぐに気がついた。



「今度ね、私の男友達にボードに誘われたんだけど、美里も行こうよ!? ねっ!」

昼休みでごったがえすスタバで、カフェモカを片手に、あやはスケジュール帳を広げ、嬉しそうに聞いてきた。

「あ、うん。いつ? 考えてみる…」

どっちとも取れる曖昧な返事をしながら、頭の中は、口座の残高の計算でいっぱいだった。
結局、その夜メールで
「私、その日は約束があったみたい! すっかり忘れてた! ごめんね、また誘って!」
と断った。

はぁ…
なんでこんな、言いわけみたいな断り方しなくちゃいけないの…


ボードに行くにはお金がかかる。
スキーサークル出身の美里が以前着ていたウェアも、もはや流行は過ぎてしまった。
でも新しく買うお金はない。

お昼休みに、ボードに行ったみんなが、楽しそうに思い出話をしているのを聞いていたら、美里は急に惨めな気分になった。

なんで私だけ…



地方から出てきた美里には、都会のOLというのは憧れだった。
好きなだけおしゃれして、おいしいご飯を食べに行って、お料理教室とか、スポーツジムとか、たまにはコンパとか、クラブとか…。

そんな生活、学生時代は無理だけど、社会人になったらかなえられると思ってたのに…

でも、現実は、お金がなくて何もできない。

華やかな同僚たちに遅れを取らないようにと、ランチもお茶も、誘われたらできるだけ、付き合うようにしていた。
でもそれ以外、決して贅沢をしているつもりはなかった。



ひゃー、眠―い…
土曜日なのに、寝てられないのはつらいなぁ…


入社して4ヵ月目の夏に、土日だけ、スーパーの店頭でビールの試飲販売のバイトを始めた。

朝の10時から6時まで、トレイを持って立ってるだけで、9,000円か…
休憩が1時間あるから。時給1,285円…
居酒屋のバイトよりマシだけど…


トレイを持つ私の横を通り過ぎたパートのおばちゃんに、『マネキンさん』と呼ばれた。

この仕事、マネキンっていうんだ…
でもなんで、マネキンなんだろう…?


そんなことを考えながら、何度も腕時計を見てしまう。

うわぁ…
まだ1分しか経ってない…


そんなバイトをしていることなど、もちろん会社の友達には言えない。



ある日、会社近くで話題のイタリアンでクリームパスタを食べていた時、あやに聞かれた。

「ね、美里ってさ、土日何して遊んでんの?」

「うーん。学生時代の友達とお茶したり、ショッピングかなぁ」

——嘘じゃない。
切実な願望だけど…


「えー、じゃあ、今度土日で遊ぼうよ!」

「うん、今度ね」

この日のランチは950円。
ランチの後に必ず行くスタバでカフェモカを飲んだら、あのバイトの、長い1時間分が飛んでしまう。
なんだか、全てがばかばかしくなってきた。

あぁ、もっと、効率よく稼げるバイトはないかなぁ…

美里は帰りの電車の中で、携帯をいじりながら求人サイトを見ていた。

【時給1,200円以上】
【時給の高い順に並び替えて検索!】


ええ!? 『フロアレディ・時給6,000円以上』!?
会社で一日働いた額よりも高いじゃん…
水商売(オミズ)って、やっぱりすごいな…




これまでにも、オミズの仕事に興味を持ったことは、何度もあった。
学生時代、友達の絵里も、美穂も、キャバでバイトしているという噂を聞いたことはあるし、道を歩いていて、キャバクラのスカウトマンに声をかけられることも、何度もあった。

でも、美里の親はどちらかというと教育熱心なタイプ。
キャバクラでバイトしてるなんてバレたら、大変なことになる。

まして、今は社会人だ。
会社にもバレたらまずい。

そんなことを、幾度となく思い出し、躊躇(ちゅうちょ)していた。
でも、今は状況が違う。

社会人になってから作ったクレジットカードの、10万円を超えた請求書を見た時に、美里の心は決まっていた。

だって、真面目に働いてんのに、お給料超少ないんだもん。
私、悪くない!


おそるおそる求人サイトに載っていた店に電話をしてみると、若い男性が電話に出た——。

(つづく)


★ Kaori's column ★

vol.01 オミズの業種、いろいろ。
水商売といっても、様々なタイプのお店があります。クラブ・キャバクラ・ラウンジ(関西圏)・スナック・ガールズバー・キャバレー(今はほとんど見かけないですけどね)などが、その主な分類です。
キャバクラは時間制で、クラブは基本的に時間制限なし…というイメージが強いかもしれませんが、実際には、クラブも一応2時間で一区切り、それ以上は追加のお席料が発生します。クラブとキャバクラの境は、最近ますます曖昧になってきています。

ラウンジとは、関西圏でいう、クラブを少しカジュアルにした感じのお店を指します。関東では、ラウンジ=ホテルのバーのようなところ…という認識かもしれませんね。

スナックは、料金が安く、オーナーママが一人、もしくは数人で、小規模に経営しているお店が多いです。

ガールズバーは、バーカウンターを挟んで対面式の接客スタイルのお店です。これはクラブ、キャバクラなどと違って、法律的には風俗店ではありません。

参考までに、男子の水商売は、ホストクラブ・サパークラブ(=ボーイズバー・メンズバー)、の2種類のようです。